万華鏡サンプル2


 祓魔師
 ヴァチカンに認められた彼らは世界各国にいる。
 小さな頃、自分の父親が祓魔師であることなど知らなかった。
 そして自分にはどうして「見えない」はずのものが「見える」のか。その事を双子の兄には言えなかった。兄には
不思議な力があり、そのせいで辛い思いをしていたのを知っていたからだ。だからこの「見える」ということが兄に
関係していることを雪男は幼いながらに知っていた。
 兄が何者なのか。
 どうして兄のせいでこんなものが「見える」のか。
 辛いし怖いし、何度も泣いたけれど兄を責めることだけはできなかった。
 そっと自分の頬を撫でる兄の指はまるで血が通っていないかのように冷たい。
 瞳の奥に揺れる青い炎から目を反らすように顔を横に向ける。
 ここにいるのはただの人形だと自分にそう言い聞かせ瞳を閉じた。
 彼はそれがおもしろくないのか、荒々しげに雪男のシャツを引きちぎり、白い胸元に歯を立てる。
ピリリとした痛みが走り、ヒクッと頬の肉が震えた。
「つまらねぇやつ」
 そう言って、じわりと滲んだ血を舐める。己のつけた歯形に沿って舌を這わせた後、強く吸われた。
「くっ」
 思わず声を漏らすと奴は息を弾ませる。
「もっと、声をだせよ」
 尚もキツク吸われ、雪男は奥歯を噛みしめた。
 あくまでもこれは自分が求めている行為ではない。
声を出さないことがせめてもの抵抗だった。




 彼に出会ったのは父が死んで、葬儀が終わった日の夜のことだった。
 まだ兄は知らなかった。
 自分が祓魔師であったこと。塾へ講師として呼ばれていること。
 純粋に行く場所がなくなり寮に入ったと、雪男は医者を目指す為に正十字学園に入学すると思っていたに違いない。
 雪男もその仮面を外したことはなかったから当然だ。
 何も知らない弟を演じるのには骨が折れたが、それもとっくに慣れっこになっていた。
 父も兄がどういう経緯で生まれたのか話していなかったから。兄が自分のことを知った時、雪男も話すつもりだった。
 そして――――昨夜、父が兄の為に死んだ。
 そのことを知った時、雪男はさして驚かなかった。いつかはこんな日がくるだろうと雪男は思っていたからだ。
 父は兄の為に死ぬだろう。
 そのことを誰より予想していたのは父だったに違いない。
 そして自分も――――。
 全てを知り、兄が出した結論は予想とは違うものだった。
 いや、その結論こそ兄らしいと言えるかもしれない。
 祓魔師になってサタンを倒すなんて……。
 そんな兄を眩しく思ったことは秘密だ。
 だけど、兄は自分に隠したがっているようだった。
 おそらく兄の中で自分はか弱い弟なのだろう。
 父が死んで、自分がしっかりなくちゃいけないと思っていたに違いない。
 そう思うのも無理はない。
 自分は何も兄に言わなかった。
 本当は父が死んだあの日に打ち明けなければならなかったことを自分は何も言えなかった。
 そして――――明日、正十字学園に入学する。
 兄は知らない。
 雪男こそ監視役なのだと言うこと。
 学校が始まれば全てが分かる。
 それはそう遠い未来ではない。
 あと少し、何も打ち明けずただの弟でいることの何が悪いだろう。
 自分を労る兄の横顔を痛々しい想いで見つめながらも雪男は言わなかった。
 あと、少し。
 あと、もう少しだけ。
 自分と兄は双子だけど、大きく違う。
 だけど学校が始まる僅かな期間だけはただの兄弟でいられる。
 父のことを不用意に責める必要もない。
 自分を守ろうとしてくれている兄のことが雪男は誰よりも大切だった。

 満月の夜。

 先に眠りについた兄の寝顔を窓の縁に座り眺めていた。
 昨日の夜から、今まで兄とはまともに会話を交わしていない。
 口を開けば自分が何を言ってしまうか自信がないからだ。
 現在、この修道院にある寮の部屋にはずっと重い空気が流れていた。おそらく燐はそれに耐えられず眠ることにしたのだろう。今は幾分、苦しそうに顔を歪めているものの起きる気配はない。
 雪男はフウッとため息を零した。
 父の葬儀が終わり、自分たちが暮らす修道院には現在、兄と自分の他には数名の神父しかいない。自分たちを除いて神父達は皆、昨夜の後始末で忙しくしていたので、今夜この寮で眠るものはほとんどいないだろう。
 その寮とも、この部屋とも今夜でお別れだ。
 父が死んで、自分たちは正十字学園の寮に入ることになっている。
 今宵はこの家で過ごす最後の夜だ。
 昼間の雨が嘘のように、今は晴れていた。
 雪男は視線を窓の方に向ける。
 見上げれば丸い月を中心に星が散らばっている。
 その光景は美しく、まるで万華鏡のようだと思う。
 ほんの少し未来が違えばこの空はなかったかもしれない。
 感傷的になっている自分に雪男は苦笑いを浮かべた。
 さて、そろそろ自分も眠ろう。立ち上がり窓を閉めたその時――背後に「何か」の気配を感じ、即座に振り返った。
 手には二丁の銃。
 反射的に暗闇の中、ゆらりと揺れる影に狙いを定めて……しまった、と思った。
 この部屋には雪男の他には……。
 チラリと視線を燐の眠っているはずのベッドに視線を向ける。
 予想通り――――寝乱れたそこに燐の姿はなく―――。
 チッと雪男は舌を打った。
 やはりそこにいるのは燐ということになるだろう。
 しかし……それにしては―――この違和感は何だ?と眉を寄せる。
 燐だと分かった時点で隠さなければならないはずの銃を降ろすことができない。
「兄さん?」
 闇の中の人影に呼びかける。すると人影がゆっくりと雪男に近づいてくるのが分かった。
 カーテンの隙間かこぼれる月明かりの中、うっすらと浮かぶ人の姿は予想通りであり―――予想とは違うもので―――。
 青い炎を纏った兄の姿は美しく、ぞっと戦慄が駆け巡った。
「にい…さ……」
 刹那、青い風が吹き抜けた。
「なっ」
 目の前を通り抜けていった風に目を見張る間もなく、背後に回った彼は雪男の首に腕を巻き付けた。
 細い首に燐の決して太いとは言えない腕が巻き付いて絡みつく。そのままグッと力を込められ、燐の腕のどこにそんな力が……と思えるほどの力で締め上げられた。
「ぐっ」
 身じろぎするが腕はビクともしない。それどころか力が抜け落ちていく感覚に顔を歪める。
 不覚にも目の前が滲み、雪男の顔が赤く染まる。
 カランと手から拳銃が滑り落ち、床に転がった。
 だけど、それを悔しいとは思わない。
 どうせ使うつもりのなかったものだ。
 一瞬、悪魔が燐の姿をして現れたのかとも思ったが、すぐに違うことに気づいた。
 ここのいるのは兄だ。だけど違う。
「貴様……」
 何者だと尋ねる雪男の瞳に燐の姿をした彼はニヤッと口の端を上げる。普段の兄が絶対にしないような表情で……。雪男は知っている。基本的に燐は人が良いのだ。いつもけんかばかりだが、誰彼かまわず傷つけたいと思っているわけではない。
 優しくて誰よりも大切な―――。
「くうっ」
 呼吸ができない苦しさに目尻から滴がこぼれ落ちる。
 生理的なものだが、悔しくてギリッと唇を噛みしめた。
 すると、急に腕がほどかれ、肺に空気が飛び込んでくる。
 ゴホゴホと咳き込みながら膝をつく雪男に燐の姿をしたものは冷ややかな視線を向けた。
「貴様……」
 捕まれた首元が熱い。
 おそらく痣になっているだろう。
 苦々しい思いで視線を向ける。
 鋭い雪男の眼差しに相手は臆することなく、むしろ嘲るように笑った。
「その目」
 指を向けられ、ビクッと体を跳ね上がる。
「普段は綺麗に隠しているくせによ」
 クックッと喉を鳴らす。
「燐の前ではそういう顔は見せたくないのか?」
「貴様には関係ない!」
「自分は何も知らないって顔をして」
「それは……」
 そのことを兄と同じ顔で言われると辛い。何故ならそれは真実だからだ。
 いずれは知られるだろう。それはそう遠くない未来。
 自分の知る全てを兄に伝える。その上で兄を守るのだ。
 祓魔師になると決めた時にそう誓った。
「何者だ!」
 鋭い声でそう問えば相手から返ってきたのは当たり前のような回答だった。