久遠に沈む時


幹部の飲み会などは、若い頃の浴びるように飲むそれとは違い、
深酒と呼べるほどのものではない。

ほろ酔い気分の心地良さを覚まさない程度の、
緩やかな凪が頬を滑っていく感覚に、ゆったりと身を任せながら、
二人で海際の道を歩く。

「多分、お前以外は無理だと思う」

ぽつりと忘れられた落し物のように、
何の存在感をも感じさせずに、菊池が呟いた。

「うん」

何を言わんとしているのか、誰に解らずとも尾栗には理解できた。

「あそこに居たのがお前だったら、きっと俺は平気だった」

「無茶言うなよ」

真闇の空虚を思わせる声音が、起こり得ない例えを綴ることに、
それが本音でありながら、本音でない事に尾栗は気付いていた。

「俺よりはずっと、雅行のほうが似合うさ」

「馬鹿なことを……」

「話を振ったのは雅行だろ」

脳裏に、一種の制服を着た親友の五年前のあの日の姿が、
まざまざと、昨日のことのように鮮明に思い出される。

あの日以来、酒が入った菊池は、尾栗と二人きりになる度に、
幾度と無く繰り返されたこの会話を、飽きもせずに繰り返すのだ。

「良かった、康平が忘れてなくて」

菊池の面に笑みが浮かんだ。

「忘れるもんかよ。雅行だってそうだろ?」

数歩前を歩く菊池の首筋を見詰めながら、尾栗はそう応えを返す。

屈強な男たちの多い職場では、少し華奢に見えるその白い首筋を、
ほぼ真後ろから眺め、尾栗は菊池が今、
その顔を見られたくないと思っていることを悟っていた。

一方菊池は、親友が同じ気持ちでいたことを確認し、
安堵の溜息を漏らして立ち止まる。

そして、海へと目を遣った。

黒い海からは、規則正しい波の音だけが聞こえて来る。

数歩遅れた尾栗が追いつくのを見計らって、
再び歩を進めた菊池は、結局いつも通りの言葉を漏らした。

「そうだな。忘れなどしない」





五年前もこうして二人並んで歩いていた。

あの日、胸の奥にあったどす黒いものが、
たった2時間の間に、菊池の全身を黒く染め抜いた。

はじめは祝福の気持ちのほうが大きかった気がする。

しかし、親友の顔に笑みが浮かぶ度に、
それは次第に大きく膨れ上がり、
しまいには、目の前に並んだ豪華な料理に、
全く箸がつけられないほどの嘔吐感を伴っていった。

親友の着る制服の、くっきりとした黒とはやけに対照的な白い塊が、
常に視界に入るのが、その原因だということは解っていた。

白い塊の一部が、親友の腕を絡め取り、
自分達と彼を遠ざけようとしている。

これは、そのための儀式なのだ。

儀式の最中、白い塊の贄となった男の笑顔は、
終始こぼれるように輝いていた。

しかし、その笑顔にもまた、
どこか昏い空虚があることを感じ取れたのは、
おそらく菊池と、その隣に座った尾栗だけだっただろう。

歓声を上げたり口笛を吹いたりと、
式を盛り上げることに忙しい尾栗の顔からも、
最後まで笑顔が耐えることはなかったが、
折に触れて、隣に意味深な視線を投げ掛ける理由は、
やはり菊池だけが理解し得ることだった。

彼の隣に居るのが自分でなくとも、せめて隣に座る親友であれば、
それならば、この儀式の意味もガラリと変わったことだろう。

埒もないと解っていても、そんな夢想に取り付かれる自分に、
菊池は人知れず苦笑した。

この会場にいる大勢の人間の中で、菊池の視界に映るのは、
自分と同じ気持ちで隣に座る優しい親友と、
一番高くそして一番遠い席に座る、もう一人の親友だけだった。



ずっと三人で居たかった。

でも、それは叶わなかった。



「なあ、雅行」

いつもなら、もう終わるはずの会話を、不意に尾栗が続けた。

「なんだ?」

「俺、結婚しようと思う」

菊池は息を飲んだ。

それは、何度も繰り返されて来たこの会話の終止符だったのだろう。

目を閉じ、深く息を吐く。

「そうか。おめでとう」

「……雅行?」

するりと出て来た言葉に、面食らったのは何も尾栗ばかりではない。

それを口にした菊池本人も、少なからず驚いていた。

「やけにあっさり言うなぁ」

「さっき、お前の本音を聞いた後だからさ。
 いきなりこの話だったら、きっと俺は正気じゃいられなかった」

そうか、と呟く尾栗の声に、菊池は小さく頷いて言葉を続ける。

「康平、俺は結婚はしない。お前らと違って、そんなに器用じゃない」

「うん……そうだけど」

言葉を濁す尾栗に、菊池は視線を上げて凛と言い切る。

「洋介も康平も、俺を守るためにそう決断したってことは解っている」

何から、とは言わない。

自分達を取り巻く環境のすべてからだということは、
言葉にせずとも、この親友には通じる。

そんな菊池の横顔を見つめる尾栗が、
やるせなさそうに首を振り、くぐもった声で続けた。

「俺も洋介も、この方法が全面的に正しいとは思ってない」

今にも泣きそうに顔を歪めながら、尾栗は息を吸った。

「でも、この気持ちを永く守って行くためには、
 きっと必要なことだと思うんだ。だから、雅行には解って欲しい」

「ああ」

菊池は何故か暖かな気持ちになっていた。

五年前に感じた感情とは正反対の、満たされるような温もりを感じる。

尾栗はまるであの日の自分達を見るような懐かしそうな目で、
黒く染まる穏やかな海を見た。

その海に、かつての自分達の影を見るように目を細める。

「この決断をするのに俺は今まで掛かったけど、
 洋介は今から五年も前、今の俺より五歳も若い時にしたんだ、
 きっと、苦しかっただろうと思う」

「ああ」

あの時がなければ、今のこの時もなかったことだろう。

この五年の間に、菊池の中でも尾栗の中でも、
胸の奥底に押し込めざるをえなかった、何よりも大切な想いを、
あのお蔭で、何らかの形で熟成させることが出来たのは事実だ。

そのきっかけを作ったのは、間違いなく角松だった。

「雅行、俺も洋介も……」

今はここに居ない親友の想いをも代弁するように、
尾栗は万感の想いを込めて、短い言葉に代える。



「何よりもお前が大事だよ」



その言葉は、今ここに居ない親友の声と相俟って、菊池の耳に届いた。

目を閉じれば、いつも傍に居る。

この感覚を覚えている限り、いつだって一緒に居られるのだ。



「俺達、ずっと一緒に居ような」



五年前に角松が言った言葉。

翌日に式を控えた新郎の言葉に、深い意味などあるはずもないと、
菊池も尾栗も、頭から茶化してかかった。

偽りの祝福と、裏切りに傷付いた自分達の心を隠すように、
角松の言葉の意味を、その場から消し去ってしまった。

寂しそうに笑う角松の顔も、見ないふりをして目を背けた。



「ああ、洋介。俺達もようやく解ったよ」



菊池の呟きは黒い海から吹く凪に乗って、
きっと、あの男の許にも届いている。

頬を撫でる凪が、気のせいか少し暖かかく感じられた。


end.


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