愛の嵐 上編より 一部抜粋


 佐助は理不尽に思いながらも、父の言いつけ通り鳴門を自分の部屋に案内するべく廊下を歩いていた。

 その後ろを金色の頭がヒョコヒョコとついてくる。

 今までもどこからか使用人を突然連れて来るということがなかったわけではない。

 だが、自分と同じ歳頃の子供を連れ帰ったのは初めてだった。それに母と話をするという父の様子からして、

今までの使用人達とは何か違う。

 そもそも父は横浜に行っていたはずだ。

 詳しいことは聞いていなかったが、横浜に仕事で出かけていたはずの父が何故、突然子供を連れ帰ってきたのか? 

「なあ、お前。どこから来たんだ?」

 佐助が尋ねると鳴門は「横浜」と答えた。

「横浜?じゃあ、やっぱり横浜から連れてきたのか?」

 何の為に?佐助の疑問はますます大きくなった。

 働き手ならわざわざ横浜から連れてこなくても、募集を掛ければいくらでも集まるのに――――――――――。

 団扇家はこの村で代々続いている大地主だ。この辺りの土地のほぼ全てを所有している。

 大半は人に賃料を貰い貸しているが、自ら保有し栽培している田畑もある。他にも事業を行っている為、

使用人の数は多かった。

 今、世間では仕事が少なく貧しい人が増えている。

 仕事を必要としている者は多いのだ。

 それなのにわざわざ横浜から鳴門を連れ帰ってきた。どうやら兄は事情を知っているようで、元々取り乱す

タイプではないが、鳴門を見ても全く動じる様子はない。

 つまり鳴門が今日、ここに来ることを知らなかったのは自分だけだということになる

「おい、お前」

 声を掛けると鳴門の体がピクンと跳ね上がった。

「な、なんだってばよ」

 若干、緊張した様子で答える鳴門に佐助は眉を寄せた。

 先ほどからずっと気になっていることがある。別にそれは彼の髪の色や瞳の色ではない。

 それよりももっと単純なことだ。

「お前、風呂は?」

「へ?」

「汚い」

 佐助は一言、鳴門にそう告げた。すると鳴門はウッと息を飲んで自分の服に視線を落とし、顔を赤く染める。

 あちらこちら破れた鳴門の服装はお世辞にも綺麗なものとはいえなかった。顔も髪も汚れている。

 数日は風呂に入っていないのが見て取れた。

 何故、父はこんなヤツを?

 身なりから鳴門があまり良い環境にいたわけではないことぐらい簡単に予想がつく。

 ますます父の考えが分からなかった。

訝しげに自分を見る視線に鳴門は後ずさる。

「し…仕方ないってばよ…だって俺…」

消え入りそうな声でそう呟く佐助は大きなため息を零す。別に苛めたいわけではないのだ。

ただその格好で自分の部屋に入って欲しくなかっただけ。

「俺の部屋に入る前にまず風呂だ」

 佐助はそう言うと鳴門の腕を掴んだ。動揺する鳴門を他所に佐助は今来た方へ向かって戻り始める。

「あ…佐助…?」

「こっちだ」

 佐助は自室ではなく、まずは風呂場に案内することに決めた。

 

 

 

 佐助に腕を握られて歩く鳴門の心中は羞恥心でいっぱいだった。

 富岳に連れてこられた屋敷は鳴門の予想をはるかに上回るくらい大きくて、綺麗なところだった。

 主人の帰宅にあちらこちらから使用人が顔を出して頭を下げる。その光景に鳴門はただ驚くしかなかった。

 玄関も広く、自分が生活していた施設の玄関の倍以上はあった。

 そこへ綺麗な女の人と端正な顔立ちの青年が富岳を出迎える為、奥から出てきた。

 女の人は今まで見たこともないくらい優しい笑みを鳴門に向けて「いらっしゃい」と言ってくれた。

 富岳は電車の中で鳴門と同じ歳の子供がいると言った。

 きっと仲良くなれる。そう言われ鳴門はその子に会うのをとても楽しみにしていた。

 そしてさっき初めて佐助を見て―――――――――。

 富岳や青年に似た端正な顔立ちの子供だった。

 清潔感を感じさせる身なりが育ちの良さを思わせた。

 それ以上に、彼の黒い瞳に鳴門は釘付けになった。

 綺麗だと思った。

 黒い宝石のような瞳。

 だけどその瞳が鳴門を見て歪められる。

 訝しげに自分を見るその瞳に鳴門は何も言えずに俯いた。

 自分らしくないと思う。

 前向きで明るいのだけが取り柄なのに―――――何も言えずに固まってしまった。

 二人になってようやく「よろしく」と言えたけど……。

 佐助の部屋に行く途中で「汚い」と言われて、鳴門は泣きたくなった。

 確かにここ数日風呂には入っていない。服は破れてボロボロだし、路地裏の地面で直に眠っていたから

顔も髪も汚れている。

 手は洗っているけど、それすら汚いと思われるだろう。

 鳴門は佐助の言葉に消えてしまいたいと思った。

 どうして富岳に付いてきてしまったんだろう。

 この屋敷を見た時に帰れば良かったのに―――――。

 確かに佐助の言う通り自分は汚くてこの場にはとても不似合いだった。

 自分には仕方のないことだが、佐助にはそうではない。

 佐助は何気なく言ったつもりなのだろうが、その一言に鳴門はかなり傷ついていた。

 しかし――――――。

「俺の部屋に入る前にまずは風呂だ」

 佐助はそう言うと鳴門の腕を掴んだ。

 その行動に鳴門は心底驚いた。

 どうして?

 汚くて部屋にだって入れたくないくせに……。何の臆面もなく自分の腕を掴む佐助の行動に鳴門は戸惑い

つつも嬉しかった。

 佐助に連れて来られて風呂場に足を踏み入れた鳴門はまた驚いた。

 風呂場は今まで見たこともないような広さだ。

 優に五人くらい入れるんじゃないかと思う。

 富岳の帰りに合わせてか既に湯が張られていた。

「さ、佐助って。ちょっと待っ…」

 風呂場に引っ張って行かれ、鳴門は慌てて声を上げた。

「何だ?嫌なのか?」

 その反応に佐助は嫌そうな顔で鳴門を見つめる。

 別に風呂に入るのが嫌なわけではないのだ。むしろこんなに広い風呂に入れるなんて一生あるかないかだと

思う。

 だからと言ってまだ富岳が入っていないのに、自分なんかが一番風呂に入って良いものなのだろうか?

 鳴門は動揺を露にして尋ねた。

「父さんはそんな小さい方じゃねえよ」

 佐助はなんだそんな事かと言わんばかりの表情で鳴門のシャツを引っぺがした。

「ほら、入って来いよ。湯船に浸かるのは体も髪も洗った後でだぞ」

「わ、分かってるってばよ」

 そのくらいのマナーは弁えている。鳴門は裸になると真っ赤な顔のまま浴室に足を踏み入れた。

 しかし、それにしても広い。

 広すぎて何をどうして良いのか戸惑ってしまう。

「な…なあ、佐助…」

 思わず鳴門は佐助に視線を向けた。すると佐助は鳴門の着ていた服を指で摘んで塵箱に入れている所だった。

「な、そ、それどうすんだよ!」

 汚くてボロボロだが鳴門の服はそれしかないのだ。服がなければ永久に風呂から上がることができない。

「捨てんだよ」

 それなのに佐助はサラリとそう言うと服を塵箱に投げ入れた。

「ああ、ちょっ」

 慌てて塵箱に駆け寄る。

 箱から服を取り出そうとする鳴門の肩を佐助がグッと押さえた。

「心配するな。服も下着も持ってきてやるから」

「へ?」

「俺ので十分だろ?」

 佐助は鳴門の頭に手ぬぐいを落とす。

「それでしっかり磨いて来い!」

 そう言うと鳴門を置いて去って行こうとする。鳴門は慌てて佐助の足にしがみついた。

 

「い、一緒に入らねえ?」

「何言ってんだ?てめえ?」

佐助がギロリと眉間に筋を立てて鳴門を睨む。

「だってよ。こ、こんな広い風呂初めてなんだって。だからその何をどう使ったら良いのか……」

 そう言って必死になって足にしがみ付く。すると佐助も必死になって鳴門を引っ剥がそうとした。

「教えてやるから、その手を放せ!」

 佐助は肩で荒々しく息をつきながらそう叫んだ。

 鳴門が足を放すとフウッと息をつく。

「とりあえず、来い!」

 鳴門の襟首を掴んで佐助は浴室に足を踏み入れた。

 温かな湯気が二人を包み込む。

「ほら、貸せ!」

 佐助は先ほど渡した手ぬぐいをひったくると、鳴門を椅子に座らせた。

 白い丸い石鹸を手にとって手ぬぐいを泡立てる。

「これで体を洗ってろ!」

 鳴門は頷いて手ぬぐいを受け取った。

 石鹸はいい匂いがした。泡立ちも今まで自分が使っていたものとは全然違う。

 手ぬぐいを肌に当て擦るととても気持ちが良かった。

 鳴門が体を洗い終えたのを見計らって佐助が桶でお湯を掬い鳴門の頭から掛ける。

「うわっ」

 突然のことに何の準備もしていなかった鳴門は驚きに声を上げた。

「ほら、今度は頭だ」

 佐助はそう言うと今度は手の平で石鹸を良く泡立てて鳴門の髪に指を突っ込んだ。

 ガシガシと洗われていく。

 こんな風に誰かに頭を洗って貰ったのは随分久しぶりだった。

 細い佐助の指がとても心地いい。

 鳴門は思わずうっとりと顔を綻ばせた。

 しかし次の瞬間、突然頭からお湯を掛けられ、また驚く。

「せ、せめて、流すぞぐらい言ってくれってばよ」

 鳴門は石鹸が目にしみて開けられない状態で佐助に抗議した。

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