小説版 昼メロジパング
第一話 角松家の事情
角松家の朝は早い。
早起きな夫・洋介は、朝からジョギングに精を出し、
腕立てやら腹筋やらと一通りのトレーニングメニューを終えた後、
シャワーを浴びて、朝食に着くのが日課だ。
妻・康平は、これに合わせて動かなければならない筈だったが、
朝が苦手だったため、いつもこの時間ぐっすり夢の中である。
「あ〜、腹減った!」
シャワーを浴び、ダイニングに現れた洋介を待ったいたのは、
淹れ立てのレギュラーコーヒーに、湯気の立つオムレツ、
新鮮なサラダ、レンゲ蜜を垂らしたカスピ海ヨーグルト、
焼き立ての自家製パンには手作りの苺ジャムが塗ってあり、
まるで高級ホテルのブレックファーストみたいな朝食だった。
「お、今日も美味そうだな!」
「別に、いつも通りだ。取り立てて、どうこうない」
「だから、今日もって言ってるじゃねぇか」
「…いいから、さっさと食え」
視線を逸らしてぶっきらぼうに言う克己に、
洋介は景気のいい音を鳴らして手を合わせると、
いただきま〜す!と言って、肉食動物のようにガツガツと食べ始める。
そうこうしてる内に、食欲をそそるいい匂いに誘われたのか、
康平が欠伸をしながらダイニングに現れた。
「はよ〜。如月、俺もメシお願い〜」
「お早う御座います、尾栗さん。すぐに用意しますね」
「洋介、ひとくち!」
「駄目だ!…って、おい!康平っ!!」
洋介が食べようとしていたオムレツを無理矢理奪い取って、
康平は舌の上でトロける卵の味に、相好を崩して言う。
「うま〜い! 如月はホント料理が上手いよなぁ」
「お待たせしました、尾栗さん、どうぞ召し上がれ」
「アリガトな。子供達のメシは?」
姿の見えない子供達を求めて、ぐるりと辺りを見回した康平に、
穏やかな笑みを浮かべた克己が言う。
「さっき、食べさせておきましたよ」
「サンキュ! 洋平のヤツ、洋己ちゃんに意地悪してなかったか?」
「洋平くんは良いお兄ちゃんですよ。洋己もよく懐いてますし」
傍目から見ても明らかにオカシイこの会話は、
角松家では日常茶飯事の…いや、本当にごくごく自然なものだった。
角松洋介の妻は、康平である。
康平は、結婚して以来、ずっと角松姓を名乗っていて、
今年三歳になる洋平という息子までいる。
しかし、克己もまた角松姓を名乗り、
この角松家で暮らしていて、洋己という二歳の娘がいる。
しかも子供達は両方とも、紛うことなき洋介の血を分けた子供だった。
「じゃ、行って来る」
「おう! しっかり働いて来いよ!」
「子供の顔が見たけりゃ、起きてる内にさっさと帰って来い」
玄関口で夫を見送る妻達と幼い子供達の頬に、
問答無用のキスをすると、洋介は軽い足取りで表に出た。
「おはよう、洋介」
途端に、東隣に住む美人シングルマザー・菊池雅行に声を掛けられる。
康平と共に、洋介の幼馴染みでもある雅行は、
角松家の敷地より少し広いくらいの敷地に建つ、
豪華な一軒家に息子と二人で住んでいた。
結婚こそしてはいないが、どうやら、
リッチな暮らしを約束してくれる相手がいるようだった。
「早いな、雅行。どこか出掛けるのか?」
「いや、ただゴミを出しに出て来ただけだ」
「そっか、綺麗にめかし込んでるから、どっか行くのかと思った」
「ふふ…そんなの、ごく普通の身だしなみさ」
「へえ、さすが、雅行だな!」
こんな、見るからに明らさまな方便に気付かないなど、
天然鈍感バカの洋介くらいのものだったが、
康平と克己は気付かないなら、そのほうがマシだとばかりに、
揃って見て見ぬふりをする。
「さ、雅洋、洋介にいってらっしゃいは?」
雅行は愛息を腕に抱き上げて、
何のパフォーマンスか、完璧なお見送りモードに入った。
勿論、角松家の玄関先で…である。
その一行の目の前に、黒塗りの高級車が停車した。
「皆さん、おはようございます」
するすると開いた後部座席の窓から、声を掛けて来たのは、
角松家の西隣に豪邸を構える、滝さんというお宅の御主人だった。
「あ、おはようございます!」
かたや駅までチャリ通勤、かたや運転手付きの高級車で御出勤と、
雲泥の差があるにも関わらず、洋介は何のダメージも受けずに、
全開の笑顔で挨拶を返した。
ここら辺りが、この男の大物たらしめる所以であった。
その笑顔に、何か思うところでもあるのか、
滝は引き攣った笑みを浮かべ、
チラリと洋介の傍らに立つ雅行に視線を遣ると、
ではお先にとだけ言って、そのまま窓を閉め走り去った。
「ごきげんよう、皆様」
背後から掛けられた声に、一同が振り向くと、
そこには、先程の滝氏の細君が、一人息子の海洋を腕に抱いて、
男好きする楚々とした風情で立っていた。
「あ、お…おはようございます、滝さんの奥さん」
独特の雰囲気に気圧されたように、
洋介はやや口篭りながら、どうにか挨拶を返した。
「拓海で結構ですよ。角松さんも今から御出勤ですか?」
「ええ、まぁ…」
「自転車で鍛えていらっしゃるからか、腿の筋肉が見事ですね」
腿と言いながら、どう見てもイヤ〜ンな場所に視線を注いで、
拓海は涼しい顔で笑みを浮かべる。
「おっと、俺もこうしちゃいられない!」
朝っぱらから、しかも子供の前だというのに、
ねっとりと視姦するかのように、粘着質な視線を股間に向けられて、
一気に居心地の悪くなった洋介は、
速攻で愛チャリに跨ると、全速力で駅に向かった。
「ふふ…いってらっしゃい、角松さん」
ひらひらと手を振る拓海に、最初に喰ってかかったのは雅行だった。
「草加、お前、朝から洋介に色目を使って、一体どういうつもりだ」
どう考えても、それは洋介の妻たる康平がいうべき台詞だったが、
雅行は額に青筋を立てて、低い声で拓海に問うた。
「それは貴方のことだろう、菊池さん。
朝から、これ見よがしに厚化粧して来たりして」
「あああ…厚化粧だと! 貴様、よくも!!」
「すっぴんで出て来るほうが、
まだマシなくらい、浅ましい行為ですよ」
素肌っぽさを第一とした完璧な薄化粧の拓海は、
その色白の面に、化粧と同じく薄い嗤いを浮かべた。
「あ〜、じゃあ、俺達はこれで…」
微妙に声をフェイドアウトさせながら、
克己の背を押して逃げを打つ康平に、雅行から硬質な声が掛かった。
「そういえば、康平。
お前、腹の調子が悪いって言ってたのはどうした?」
康平はギクリと身を硬くすると、額に脂汗を浮かべ、
引き攣った愛想笑いを浮かべて言った。
「や…特にどこも悪くは…。病気じゃなかったみたいでさ」
「何だ、いい加減な。お前、ちゃんと医者に診て貰ったのか?」
「ああ、うん、それは大丈夫。ちゃんと診てもらったぜ!」
「そうか、それならいいけどな」
「し…心配してくれてサンキューなっ!」
なんとか雅行の言及を逃れた康平は、ホッと胸を撫で下ろした。
しかし、その安堵も束の間のものだった。
「病気ではなかった…ということは、尾栗さん、貴方まさか…」
「もう入りましょう、尾栗さん」
訝しむ声を放つ拓海から庇うように、克己が康平の腕を引く。
「おお、じゃあな!」
そそくさと家に入っていく康平と克己を見送りながら、
雅行が眉を顰める。
「…何だ、アイツ」
「菊池さん、貴方まだ気付かないんですか?」
「だから、何の話だ?」
「尾栗さん………きっと、おめでたですよ」
「な…なんだとぉ〜〜〜!?」
町内を揺るがす怒号を発して、雅行が叫んだ。
その声を家の中で聞きながら、康平は溜息をつく。
「あの調子じゃ、雅行にもバレたかなぁ」
「恐らく、草加さんがチクッてるだろうと思われますが…」
「ま、いいけど。いずれ判ることだし」
「角松は気付いてませんが、あの二人の子供も、
それぞれ角松の子ですからね。心中穏やかではないでしょう」
「あんな解りやすい名前つけてあるのに、気付かないなんて、
ホント、洋介って馬鹿だなぁ…」
「でも、その状況を許してる尾栗さんだって、相当なお人好しですよ。
そりゃ、俺としては感謝してますが…。
あの…俺と洋己は、本当にここに住んでていいんですか?」
「いいの、いいの。俺だって色々お前に助けて貰ってるし、
お互い様だから、気にするなって」
心配そうに声を掛ける克己に、小さく苦笑を返して、
康平は窓の外を眺めながら呟く。
「雅行や草加のことだって、俺のほうは一向に構わねーんだけど、
アイツらが構うんじゃ仕方ないし…な。」
本当は、昔からずっと洋介の事が好きだったくせに、
高すぎるプライドが邪魔をして、素直になれず、
金持ちの愛人なんぞに身を堕としている幼馴染の顔を思い浮かべて、
康平はやり切れない溜息をつく。
複雑な事情を抱えたまま、角松家は来年、六人家族になるようだった。
第一話 end.
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