第二話 滝家の事情


「朝のアレは、何だ?」

栄一郎は、綺麗なクロスのかかったテーブルを挟んで、
向いに座る雅行を見詰め、溜息混じりに言った。

「珍しく草加が送りに出ていただろう」

「ああ、アイツも気まぐれで、行動に予想が付かんで困っている」

「まあ、軽い嫌がらせだ。気にするな」

美しい銀器で、瑞々しいハーブと共にワイン煮の肉を口に運びながら、
雅行はこともなげにそう言い、美しい唇を引き上げて薄く嗤った。

そんな愛人の様子に、栄一郎は溜息をつく。

「…だったら、なんだっていつまでも、こんな自宅近くに住むんだ。
 どこかにもっといい家を買ってやるから、そろそろ移らないか?」

「俺は隣に幼馴染みがいるから、ここに住んでいるんだ。
 だいたい、俺のほうが先にここで暮らしていたんだから、
 自宅を購入する時に、注意しなかったアンタが悪いんだろう?」

「あれは、草加が勝手に…」

「草加がここを選んだのは俺への当て付けだ。だったら、尚のこと、
 尻尾を巻いて逃げるなんて、俺は真っ平御免だ」

美人だが強情な愛人の言葉に、栄一郎は二の句が継げない。

妻の拓海といい、こう…鼻っ柱の強いのが玉に瑕だとは思うものの、
珠玉の美しさを誇る雅行に、栄一郎は強い執着を感じている。

出会った時には既にシングルマザーだった雅行の、
命よりも大事だと言って憚らない、
今はもう四歳になる愛息・雅洋の父親を、栄一郎は知らない。

調べれば簡単に判ることだが、雅行と付き合い始める前に、
詮索することを固く禁じられていた。

だいたい、愛人の過去を暴いてどうこうと罵るなど、
狭量な輩のすることであり、
栄一郎は己がそんな男ではない自負している。

「ところで、今朝、お前が出勤した後、
 草加のヤツが洋介に色目を使っていたぞ?」

「なにィ!?」

滝邸の東隣に位置する角松家は、
雅行の幼馴染み二人が、結婚して構えた家だ。

主人の角松洋介は、ごく普通のサラリーマンだったが、
営業能力が高く、年齢の割に年収も多い。

妻と一人息子のほかに、
若くして未亡人となった妹とその子供も養っているというが、
どこでどう仕入れた情報かは知らないが、
妻の拓海に言わせれば、あれは角松の前妻と後妻なのだという。

しかも、その情報は幼馴染みであるはずの、
雅行さえも知らないことだった。

しかし、その雅行に言わせても、角松には妹などいないと言う。

まったくもって、謎だらけの隣家であったが、
自宅でも愛人宅でも、何かと話題に上るとなれば、
栄一郎としても、まるきり無視は出来なかった。

そして、拓海が角松と言う男に興味を持っているのは、
業腹ではあるが、どうやら事実のようだ。

度々行われる雅行からの密告からも、拓海自身の言葉からも、
そういう匂いがぷんぷんする。

「仮にも洋介と康平は、俺の幼馴染みだ。
 家庭をブチ壊されたりしたら、迷惑だからな。
 変なことにならないよう、アンタも目を光らせておいてくれ」

「ああ、わかった」

栄一郎は頷いて、グラスの中の赤ワインを飲み干した。

妙に喉が渇いていることを自覚して、
初めて、己の心のざわめきを認めた栄一郎は、
忌々しそうに、自らグラスにワインを注いだ。

残念だが、今日は早々に自宅へと帰ることになりそうだった。



「なんだ、帰ったのか」

拓海は夜着のまま、革張りのソファーの上で寛ぎ、
冷酒を片手に、帰宅した夫を迎えた。

朝、洋介に見せたように、楚々とした風情は欠片もない。

「帰ったら悪いか。ここは俺の家だ」

「今日はあっちに泊まるのかと思ってたから、そう言っただけだ。
 子供みたいに、いちいち突っ掛かるな」

歯牙にも掛けない拓海の物言いに、栄一郎は思わず顔を歪める。

そして、苛立つ心のまま、拓海に問い掛けた。

「今朝、隣の主人に色目を使っていたというのは、本当か?」

「帰った早々、御挨拶だな。あの年増に何か吹き込まれたか?」

空の一升瓶を爪先で弄びながら、拓海が上機嫌に問い返す。

まるで、栄一郎を苛立たせるのが目的のように、
拓海の態度は、不誠実で人を食ったものだ。

「どうなんだと聞いているのは、俺だ!」

「愛人の甘言に惑わされて、
 自ら家庭不和を招いている事にも気付かないとは…愚かな奴だ」

蔑むように栄一郎を一瞥すると、
拓海は呑み掛けの冷酒をチロリと舐めて、鼻白んだように嗤う。

そして、唇に嗤いを刻んだまま言った。

「まあ、確かにお隣の御主人は魅力的な人だがな」

「草加っ!!」

「お前のように親から譲り受けた地位で、安穏と生きるのではなく、
 自らの才能と努力で、己の道を切り拓いて行く男は、
 総じて魅力的なものであり、角松さんは、そういう部類の男だ」

そう言って尚も嗤うと、拓海は、
お坊ちゃま育ちを密かにコンプレックスとしている栄一郎の、
ぐうの音も出ない様子に満足したのか、救うような言葉を紡ぐ。

「…と言うのが、客観的な評価…つまり一般論だ」

「草加…」

「だが、男はそれが総て…という訳ではない」

途端に栄一郎の顔には、本人すら無自覚の安堵の色が拡がる。

拓海は、一言も夫を褒めそやすこともなく、
涼しい顔で、その言及から逃れるという離れ技をやってのける。

見事な手腕だった。

妻にいいようにあしらわれている事にも気付かないまま、
栄一郎は僅かに頬を染めて、その面に悦びを滲ませる。

拓海は深い笑みを浮かべ、幼い我が子が乳離れしたがゆえに、
ようやく呑めるようになった好物の冷酒を口に運んだ。





高級ホテルのラウンジで、注文した紅茶を一口含んだ後、
拓海は目の前に座る立派な体躯の男に、ふわりと微笑みかけた。

「海洋はこの通り、一人っ子なもので、
 遊び相手がいなくて可哀想に思ってるのです」

「…はあ」

今朝、家の前で会った隣家の細君に、何故だか、
昼休みに呼び出された洋介は、何と応えたものやらと思案する。

以前に、不可抗力で知られてしまった携帯の番号に、
着信があったのは、本日昼前の十一時きっかりだった。

何度も断るも、強引に押し切られて、今に至る。

「ですから、今度の日曜日、プールに連れて行って頂けませんか?」

そんな中、対外的に非常にマズイお誘いを受けてしまい、
洋介は、営業部の成績第一位にはあるまじき歯切れの悪さで応える。

「いや…そういうのは、御主人に頼まれたほうが…」

「主人は…。土日は決まって、愛人宅に泊まって来るもので…」

本当は、ただの出張だったのだが、そんな事はこの際どうでもいい。

長い睫毛を伏せて、そう口篭る人妻と言うものは、
無駄に男をときめかせるものである。

聞いてはいけない滝家の内情に、図らずも触れてしまった洋介は、
目の前で消沈する拓海を放っておける筈も無く、
会社まで押し掛けて来られた迷惑などすっかり忘れて、頷いた。

「奥さん」

「拓海です」

「失礼、滝さん」

「拓海ですってば」

「えっと、それじゃ…拓海さん」

「呼び捨てで構いませんのに…」

「いや、それはさすがに…」

「では、次回から呼んで頂くことに致しましょう」

「あの…よろしいでしょうか?」

「はい、どうぞ」

コホンと一つ咳払いをして、場を改めてから、
洋介はおもむろに言う。

「そういった御事情でしたら、私も御協力させて頂きましょう」

途端に、ぱあっと顔を綻ばせた拓海の姿を目にして、
やっぱり人助けって大切だよなぁと、トンチンカンなことを考え、
洋介は満足の表情を浮かべる。

傍目から、どう贔屓目に見ても、
昼の密会にしか見えないこのシチュエーションで、
二人は休日、子連れでプールに行く約束を交わした。



夕刻、帰宅するために夫の愛人の家の前を通った拓海は、
庭のハーブを摘みに出て来た雅行と鉢合わせした。

恐らく栄一郎が来るのだろう。

これ見よがしに勝ち誇った笑みを浮かべる雅行に対して、
拓海は涼しげに笑みを返し、軽く会釈をしてその場を立ち去る。

そのまま、隣家である角松家の前に差し掛かった時、
若くして洋介が購入したという家を、ふと見上げ、
愛おしげに目を細めて、拓海はふわりと微笑んだ。

背後で、にわかに気色ばむ雅行の気配を感じつつ、
敢えてそれを無視して、拓海は家路につく。

それは、腕の中の幼子の、
本当の父親に想いを馳せながらの帰宅であった。


第二話 end.

BACK / NEXT