第四話 滝家の真実


滝栄一郎は妻との間に、昨年、一子・海洋をもうけた。

肌も髪も瞳の色も、生まれつき色素の薄い妻とは対照的に、
日々すくすくと成長する息子は、
父親によく似た黒髪と凛々しい眉をしていて、
栄一郎はことあるごとに、海洋を自分の子だと実感して、
幸せを噛み締めていた。

「かいようた〜ん、パパですよぉ」

部下には決して見せられない、緩みきった阿呆面を晒して、
懸命に息子をあやす姿は、本来ならば微笑ましいはずであったが、
栄一郎の妻・拓海から言わせれば、それは実に滑稽な光景だった。

「お前のお蔭で、カッコウの子も育つというものだよ…滝」

夫の背に向けて、ひっそりと漏らされた、
事態の核心を突く妻の言葉に、栄一郎が気付くことはない。

拓海は目を閉じて、二年前の邂逅に想いを馳せた。



その日、拓海の体調は最悪だった。

くらくらと揺れる視界と、込み上げる吐き気に苛まれながら、
うずくまっていた拓海に優しい手が差し伸べられた。

「大丈夫ですか?」

男の声だと言うことは解ったが、視界が揺れて顔がよく解らない。

拓海は前方のホテルを指差し、そこに宿泊している旨を、
力強く支えてくれる腕に縋りながら、どうにか相手に伝えた。

意識が朦朧とする中、男に抱え上げられて目的地に向う間、
拓海は優しい声音に励まされながら、何度か頷いていた自分を、
今でもぼんやりと覚えている。

頭痛をもよおすような眩暈が、やがてふわふわとした酩酊へと変わり、
ようやく自分を抱える男の顔を間近で見た拓海は、
息を飲んで、握っていた男の服を、更に強く握り込んだ。

当然のことだが、男は拓海の全く知らない顔だった。

確実に、今、初めて会ったのだと言える。

にも関わらず、一瞬さえも目が放せないほどに、
その男に惹かれてしまっている自分を感じ、
程なくその恋心を自覚した。

男は、目を見開いたまま苦しげに顔を歪める拓海に驚いて、
救急車を呼びましょうかと言ったが、拓海は首を振り、
どうかあのホテルまで連れて行って下さいと、重ねて懇願した。

男は何か事情があるのかと聞いてきたが、拓海は黙っていた。

事情も何もなかったが、どうあっても自分は、
この男と関わりを持たねば気が済まないのだと知るにつけ、
拓海は、いかにして彼を部屋まで導こうかと画策し始める。

果たして、男は拓海の泊まる部屋に足を踏み入れる事と相成った。

それもひとえに、ロビーまで辿り着いた男の袖を、
死んでも放さなかった拓海の凄まじい執念の賜物だといえた。



拓海は部屋へ入ると、相変わらず気分の悪い振りを続けて、
男の躯に縋っていたが、頃合を見計らって喉が渇いたと男に訴え、
男が冷蔵庫にしゃがんだ隙に、バッグから目薬を取り出した。

勿論、泣き真似をする為ではない。

こんな小道具が無くたって、涙のひとつやふたつ、
速攻で流すことなど、拓海にとっては造作もない事だ。

それは、高貴な顔立ちに反して、手癖の悪い拓海が、
かつて幾度も使って来た常套手段…適量の目薬で以って、
相手を朦朧とさせたり、眠らせたりという禁じ手中の禁じ手だった。

男の体躯を背後から見定めた拓海は、やがて渡された飲み物に、
素早く、男の躯に見合うと定めた量の目薬を、数滴落とし込む。

更に、手渡された飲み物を口元まで持って行くものの、
やはり気分が優れなくて飲めないと言って、男の手にそれを戻した。

そして、走って頂いたから喉が渇いておいででしょう…
よろしければ、私の代わりに飲んで下さいと言って、
とどめとばかりに、弱々しく微笑んで見せる。

拓海の目論見通り、男は渡された飲み物を一気に飲み干した。

やがて薬が効いてきたのか、
明朗だった男のろれつは、次第に回らなくなり、
拓海の言葉にも反応が鈍り出して来た。

ベッドに横たわるよう勧めると、男は素直に従った。

拓海は、我が意を得たりとばかりにその唇を嗤いの形に歪めると、
苦しいでしょうと言って、雄々しい体躯を包むその服を剥ぐ。

そして、朦朧と中空に視線を彷徨わせる男の股間へと、顔を伏せた。



その時の交わりで、出来た子供が海洋だ。

念の為、密かに栄一郎との親子関係をDNA鑑定させたが、
その染色体を表す記号は、ことごとく不一致を示していた。

拓海は人妻の身でありながら、
行きずりの男と過ちを犯したことを、全く後悔していない。

また、行きずりで終わらせる気など、さらさら無かった。

その為に、男の素性を可能な限り調べ上げ、
挙句の果てに、彼の住まいの隣へと越して来たのだ。

夫の愛人が近くに住まっていることなど、どうでも良かった。

ただ、自分の愛する男の許へ来たかっただけだ。

そして、今はあの家にいかに入り込もうかと画策している時が、
拓海を最も楽しくさせてくれる時間となった。





雅行は土曜の午後、自慢のハーブの手入れをする為、
自宅の庭先に出ていた。

手を休める度に、幼馴染みの住まう隣家の庭へと視線を流す。

不意に出て来たりしないだろうか、そうすればこの時刻、
自然を装ってお茶にも誘えるのに…と思い巡らせる己の浅ましさに、
数日前の朝、今付き合っている男の本妻に言われた言葉を思い出し、
雅行は密かに歯噛みする。

雅行は今でも、幼馴染みで、
かつて恋人だった洋介のことを愛していた。

一日たりとも忘れることなど、出来ないほどに。

けれど、彼を切り捨てたのは自分だ。

自分の想うのと同じ深さの愛情を、
洋介から得ることが出来なかったからだ。

自分ばかりが、相手を想っているなどという状況は、
雅行にとって弱みを曝け出す以外の何ものでもない。

それは耐えられない屈辱だった。

たとえ好きな男に対してでも、雅行は常に対等でありたかったのだ。

まして、妊娠を盾に結婚を迫るような愚かな真似は、
死んでもしたくないと思っていたし、事実、出来なかった。

故に洋介の傍から離れ、雅行は一人で子供を産み、一人で育てて来た。

幸いにも愛息・雅洋の容姿は、雅行に酷似していて、
洋介と再会した後も、幸か不幸か、
洋介が自分の息子ではないかと疑ったことは、今まで一度としてない。

息子の名に込めた雅行の想いは、やはり洋介には届かなかったのだ。



服に付いた土を払っていると、
今年四歳になった愛息が、雅行の許に駆け寄って来た。

幼稚園に通い始めて、随分と重くなった体を抱き上げ、
その体に流れる洋介の血を確かめるように、そっと頬を寄せる。

この子の重みが増すように、年を重ねるごとに重くなって行く、
もう別れた男への哀愁に苛まれながらも、
やはり、この子を手放すことなど出来ないのと同じに、
その想いに別れを告げることなど出来ないのだと、雅行は実感する。

洋介と別れて、もう五年の歳月が経っていた。

彼は新しいものを創り出し、自分は過去のものに縋って生きていたが、
それでも同じ場所で、同じ空気を吸っている。

彼ではない人間が、自分の傍で、寄り添ってくれるのだから、
今はそれで、満足しなければいけない。

そう…ただ、それが洋介でないだけのことなのだ。

たった…それだけのことだ。



「お、雅行! 庭の手入れか?」

突然の掛けられた隣に住む幼馴染みの声に、雅行は我に返った。

一瞬、ギクリとした心をひた隠しにして振り返ると、
そこには康平が立っていた。

「お前こそ何だ、もう子供に野球を仕込むつもりか?」

グローブを持った康平に、雅行はニヤリと笑ってみせる。

「俺んトコより、先にそっちだろ〜? なぁ、雅洋、野球しない?」

する!と即答した愛息を下に降ろして、
その後姿を見詰める雅行に、康平が明るく声を掛ける。

「お前も来いよ! 如月がケーキ焼いたから、一緒にお茶しようぜ?」

「いいのか?」

「いいに決まってるじゃん! 当たり前だろ?」

この複雑な関係を一切無視して、あの日のままに、
屈託の無い笑顔を向けてくれる優しい幼馴染みに対して、
雅行は心の中で頭を垂れた。

「俺の口に合うかな?」

「なんの、うちのパティシエの腕をなめてもらっちゃあ、困るぜ?」

「ほう? 上等だ」

雅行は今更ながら、洋介と結婚したのが康平で本当に良かったと、
心の底から神に感謝したくなった。

勿論、そんなものがいれば…の話であったが。


第四話 end.

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