第八話 脆弱な小鳥の飛来・後編
あの人を初めて見た時の衝撃を忘れた日など、唯の一度もない。
秘書室のデスクで書類を整理しながら、
青く澄む空を眺めては、人知れず熱の篭もった溜息を吐く。
あの日、経営コンサルタントとして訪ねて来たその人を、
ロビーまで迎えに出向いたのは、社長秘書室に籍を置く桐野だった。
広いロビーに幾つか設えられたソファから聞こえる、
軽いざわめきのような談笑を、切れ味の良いナイフで切り裂くように、
するりとかわして、その人は立ち上がった。
静謐な空気を纏った、けれど華やかに咲き誇る大輪の薔薇のような、
麗わしき人…そう語るに相応しい美貌に、桐野は圧倒される。
その人が視界に入った瞬間、
間違いなく体に電流のようなものが走ったのだが、
その時の桐野には、全身を貫くように訪れたものの正体を、
正しく把握出来てはいなかった。
ただ、じわりと這い上がってくる甘美な痺れに四肢の自由を奪われ、
成す術も無く、呆然と立ち尽くすばかりだった己の姿は、
今になって考えると、羞恥に震えるほどに間抜けであり、
思い出すのも憚られるものだった。
今までの桐野の人生において、
生身の人間があのように神々しく輝いて見えた瞬間は、
後にも先にもこの唯一度きりのことである。
それほどまでに、その人…菊池雅行という人は、
知性と美貌に溢れた、この世に二人といない珠玉の麗人であった。
桐野はそれを思い浮かべる度に、いつも思うのだ…。
確かにあの時…あの瞬間だけは、
その人と自分、二人だけの時間であったのだと。
しかしあの直後、桐野はその人を社長室へ案内してしまった。
それが仕事だったのだから、仕方がない…そう頭では理解していても、
負の感情は正直に桐野の心を支配した。
桐野の果たした仕事…それは、言い換えれば、
己の仕える社長とその人との、初めての対面を意味している。
今の彼らの、ただならぬ…かつ不誠実極まりない関係を思うと、
図らずもあの対面の瞬間を導いた自分に対して、
抑え切れないほどの激しい怒りを感じる時がある。
あの麗しき人が社長夫人という、
それに相応しい地位を得たのであれば、
涙を飲みつつも、桐野はそれを受け入れることが出来たであろう。
地位も金も名誉も、総てが桐野よりも秀でた男に見初められ、
正式な妻の座に納まったのならば…きっと、納得出来ていたはずだ。
しかし、彼らの関係はそのような健全な形のものではない。
その事実を知った時、桐野は胸の軋むような思いというものを、
最も容赦のない形で知ることとなった。
「この書類を、この住所まで届けに行ってくれたまえ」
桐野の勤める秘書室の室長である立石良則は、
社長室から下がって来るなり、そう言って、
自らのデスクへと無造作に封筒を置いた。
すぐさま桐野は立石のデスクへと赴き、示された封筒を受け取る。
「経営コンサルタント関係の書類だ。菊池様にお届けしろ」
「は、ですが、この住所は菊池様の会社では……」
「自宅だ」
「ご自宅……ですか?」
相手が重役クラスの人間でない限り、
わざわざその自宅へ書類を届けることなど滅多にないことだ。
しかも、コンサルタント会社の人間ならば、
こちらが依頼しているとはいえ、形としては雇っているのである。
桐野が不審を露わにするのを、とっくに気付いているのであろうが、
そんなことなどおくびにも出さず、立石は続けた。
「それと…そうだな、薔薇か何かの花束でも用意して持って行け。
蘭でも百合でも構わないが、それなりに豪華なものをな」
自宅へ赴く話の次に花束と聞いて、桐野は蒼褪める。
まさか…という思いが、様々な可能性を秘めていくつも胸を去来した。
「菊池様は、お体でも悪くなされたのですか?」
恐る恐る尋ねる桐野に、立石は素っ気無く、いいやとだけ答えた。
その短い答えに顔を蒼褪めさせた桐野が、業を煮やして、
ではいったい…と言いかけるのを、
まるで視界に入っていないという風に、立石は命令を重ねる。
「それから、菊池様に社長からの伝言をお伝えするように」
「ご伝言……でございますか?」
社長自らの私的な伝言と聞かされて、
瞬間、閃くように脳裏に浮かんだ嫌な予感に、
桐野は我知らず、声に震えを帯びさせていた。
感情を抑えるのも仕事のひとつとされる秘書に、
あるまじき失態であるという自覚はあったが、止められない。
一瞬、立石の顔に笑みのようなものが浮かんだが、
それは決して、温かみや柔らかみを帯びたものではなかった。
不穏なものを感じた桐野の背筋に、冷ややかなものが走る。
「来訪は十時になる。遅れてすまない…と」
酷薄な顔をした上司の薄く開いた唇から、その言葉が零れた瞬間、
桐野は自分の心の裡に住まう麗人の境遇を、正しく理解したのだ。
大きな花束を抱えて車から降り立った場所は、
高級住宅街と呼ばれる地区の一角だった。
会社員にとって勤務中であり、そして世に言う昼下がりという時間に、
見るからに高そうな花束を抱えたスーツ姿の男など、
周辺住人の目には、奇異と映るだろうことは想像に難くない。
現に隣家の…この一角に住んでいるのしては、
妙にラフな出で立ちの主婦が、じっとこちらを見詰めている。
桐野はいたたまれない思いで足早に歩き、
門扉の前に立って一呼吸おいてから、意を決して呼び鈴を押した。
モダンな造りの外装とは裏腹に、
意外にもレトロな、涼やかなベルの音が鳴り、
少ししてインターホンの向こうから、凛とした声音が誰何して来る。
間違いなく、かの麗しき人の声音だった。
桐野はにわかに乱れ出した心拍を悟られぬよう、
努めて声の抑揚を抑えて、応えを返す。
「恐れ入ります、帝国インターナショナルの桐野と申します。
社長の滝より言い付かりまして、書類をお届けに参りました」
ここへ来る車内で何度も呟いたお決まりの文句を、
ただインターホンの前で復唱するだけのことであるのに、
異常な緊張を感じている己を自覚して、
桐野は情けなさに頭を抱えたい心地だった。
かろうじて声は震えなかったが、今後の対応で、
失態を犯さないという自信は、これっぽっちもない。
自宅のドアが開き、門の前まで歩いて来る麗人の姿を垣間見て、
桐野は己の心臓の音が高まって行くのを、
緊張に軋みを上げる自身の体に受け止めるだけで、精一杯だった。
やがて門扉が開き、かの麗人が目の前に現れる。
「お…お忙しい時間に、し…失礼致します…っ!」
案の定、桐野の声はみっともなく上擦った。
「いえ、書類を届けて頂くという連絡を事前に頂いておりましたので」
そんな桐野の緊張をほぐすように、麗人がふわりと微笑む。
桐野は感動に胸を震わせ、次の言葉を忘れて、
あのとかそのとか呟きながら、その笑顔に見惚れた。
瞬間、手にした花束を取り落としそうになり、慌てて抱え直す。
「こここ…これを!」
音がしそうなくらい勢い良く頭を下げ、
桐野は目の前に佇む美しい麗人に、震える手で恭しく花束を捧げた。
しかし、麗人はそれを受け取らず、ふわりと笑う。
「先に書類を頂いてもよろしいですか?」
至極ごもっともな言葉を耳にして、桐野は愕然とした。
「ももも…申し訳ありませ…っ」
「書類が揃っているかどうかを、先に確認をさせて下さい。
でないと、両手が塞がって仕事になりませんので」
暗に、花束の受取りを拒否した訳ではない…という、
ニュアンスを匂わせながら、麗人が優しげに微笑むのを、
桐野は呆けたように、ぼんやりと眺めていたが、
はたと自分の仕事を思い出して、脇に挟んだままの封筒を持ち直し、
慌てて差し出した。
「こ…こちらになります」
桐野の本末転倒めいた行動には何の口も挟まず、
麗人は柔らかい仕草で封筒を受け取る。
「確認させて頂きます」
そう言って麗人が、そのしなやかな指で書類を捌く様や、
内容を確認する為に節目がちになった目元を、桐野はそっと盗み見た。
理知的なレンズの向こう側には、長い睫毛が綺麗な弧を描き、
優美で悩ましげな影を落としている。
その例えようのない美しさに、桐野の鼓動は更に高まった。
「はい、確かに」
手早く確認作業を終えて、頷く麗人の仕草に思わず胸を震わせる。
桐野は、意識をぼんやりとさせる見えざる霞を振り払うように、
激しく首を振り、改めて麗人へと向き直った。
そして、先程渡しそびれた花束を、再びその前に差し出す。
「こちらのお花は、社長からでございます」
桐野の言葉を耳にした途端、麗人は不思議そうに目を瞬かせた。
「……本当に?」
「え?」
意味も無く焦りを滲ませる桐野に柔らかく微笑みかけ、
麗人は優しい声音で言葉を綴る。
「あいつは薔薇といえば真紅と決めつけてるきらいがあるので、
こんな淡いローズピンクを選ぶはずがないと思ってね」
仕事とプライベートをきっちりと分けているのだろう……
書類の確認を終えた途端、言葉つきが変わった麗人に、
桐野は少しだけ近付けたような気持ちになる。
だが、その言葉の内容は……桐野には残酷なものだった。
決定打を打ち込まれた桐野の心は、
決して明るいものであるとは言い難い。
「君が選んで来てくれたのかい?」
しかし、歳若い秘書に掛けられた柔らかい声音は、
桐野の凍えかけた心を暖かく包み、蕩けさせて行く。
「あ…あなたには…この色が、お…お似合いになると思って…」
「ありがとう。嬉しいよ」
その言葉に、これほど静かに襲い掛かる衝撃があるものなのかと、
桐野は身を固くして、激しく心を震わせた。
じわりと柔らかく、
しかし心臓がその動きをとめるのではないかと思うほどの、強い衝撃。
このまま、あの白い手でくびり殺されても、きっと自分は、
幸福の内に死を迎えられるのではないかとさえ思うほどの、
筆舌に尽くしがたいほどの、甘美なる悦び。
今までの桐野の人生では味わい得なかったものが、そこにはあった。
その後、桐野は不覚にも麗人の前をどのようにして辞したのかを、
まるで覚えてはいない。
それほど、精神が高揚した状態にあったのだ。
この日を境に、桐野はその身も心も、麗しき麗人の虜となった。
それから後というもの、想いは募る一方だった。
桐野が一切を捨ててでも頑なに願ったのは、
いかなる形であっても、あの美しく清らかな麗人と、
どこかで繋がっていたいという、その一点のみであった。
自分の気持ちなど後回しでいい。
あの麗人の笑顔が見れるのならば、どんなことでもしてみせようと、
心に誓う桐野の未来は、決して明るいものではなかったが、
それでも、この想いを得たことに後悔することはなかった。
社に戻った桐野は、滝が上着を着るのを手伝う立石の顔を見た途端、
己の犯した失態を思い出した。
「申し訳ありません、室長!
言付かっておりました菊池様へのご伝言…お伝えし損ねました」
「ああ、構わん、桐野。今から俺が電話を掛けるから」
桐野の予想に反して、その報告に応えを返したのは、
命令を下した立石ではなく滝だった。
元々は滝からの伝言なのだから、それは至極当然のことであったが、
失態に慌てた桐野は報告する相手すら間違えていた。
しかしそれを責めるでもなく、
むしろ、心なしか浮き立つような響きを感じさせる上司の声音に、
何故か立石の目が、忌々しそうに眇められる。
早速、自分の携帯から電話を掛けた様子の滝が、
「約束通り九時前にはそっちに行ける」と言っているのを、
現在、すべてにおいて上の空の桐野は、
幸か不幸かキレイに聞き逃してしまった。
どうやら、立石がわざわざ桐野に伝言を命じたのは、
少しばかり別のところに意図があるようだったが、
桐野にしても、また滝にしても、その意図に気付くことはなかった。
第八話 end.
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