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頬に風が触れる。
ふわり温かく、それでいて爽やかで心地の良い風だ。
固く閉ざした蕾が綻んで花を咲かせるような春の風を感じ、ゆっくりと重くのしかかる瞼を押し開く。
いや、開いたつもりだった。
目に飛び込んできたのは深い闇だ。
どこまでも続くような深く暗い闇が広がっている。
心地よい日差しの温もりを感じるのに、温かな光はどこにもない。
これは一体?
驚愕に目をさらに大きく開く。
だが……開いているはずなのに、何も見えないのだ。
「なんだ……」
何が起こっているのかわからないまま、手を自分の顔へと向けた。見えないとも自分の顔の位置くらいは分かる。
そっと頬に触れると指先がとても冷たくなっていたのに気がついた。自分の指のはずなのに、不思議な感覚に囚われな
がら冷たい手を顔に這わせる。何も見えない為、すべては感覚でしかない。瞳の位置に手を持っていくと、震える睫が
指に当たった。それからゆっくりと目の淵を辿る。
「あっ……」
やはりというのは変なのかもしれない。
目を開けていると確かに自分でもそう思っていたのだ。
だけど、何も見えない。
何一つ。
「ああ……」
驚愕に体を震わせる。
これは一体、どういうことなのだろう。
いつから自分は目が見えなくなってしまったのだろうか。
そう考えて更に驚愕の事実に気づく。
もはや恐慌状態に陥って体をガクガクと震わせながら、言葉にもならない声が零れた。
「あっあっあっ」
俺は――――――。
何も見えない。
爽やかな風も温かな日差しも感じるのに――――――。
鼻腔に漂うは花の香り。
刹那、何かが頬の上にヒラリを舞い落ちてくる。
指でそれに触れてみた。
おそらくそれは先ほどから香る花の花びらだろう。薄く小さな花びらを震える指で摘んでみる。
感触はある。感覚もある。
けれど、見えるのはただの闇。
どうして?いつから?
いや、そんなことより更に問題なことがある。
俺は誰だ?
ここはどこで、どうして横たわっていたのか?
自分は誰なのか?
いつから目が見えなくなったのか?
頭が真っ白で何も思い出せない。
指で摘んだ花びらを投げ捨てると両手で目を覆う。
体の震えがとまらない。それどころかよりいっそう激しくなっているような気がする。
同時に喉の奥が詰まり、息苦しさを感じた。
苦しくて夢中で息を何度も吸い込む。しかし空気が入れば入るほど苦しくなっていくような気がした。
ヒュウ、ヒュウと胸が音を鳴らす。
苦しい。苦しい。苦しい。
目に押しやっていた手を今度は胸に当てる。もがく様にキュウと服を鷲掴みにした瞬間、誰かの声が聞こえてきた。
「しっかり、息を吐くんじゃ」
吐く?
吸うのではなく吐く?
「そうじゃ、急いで吸ってはいかん」
そう言って誰かが口元に何かを当てた。見えないので良く分からないが、このガサッと響く音からそれがビニール
袋だろうと思った。
どうやらビニールの中に息を吐けということらしい。
「ゆっくりじゃ、落ち着いて」
そう言ってなだめる様に背中を摩る。
声の感じからして相手が男であることはすぐに分かった。話し口調からそれも初老にあたる年齢くらいではないか
と想像する。
男に言われるがまま、袋の中にゆっくりと呼吸を数回繰り返していく。すると、少し楽になったのに驚いた。
「もう、大丈夫じゃ」
呼吸が楽になった頃、男が胸を撫で下ろし言った。
「いきなり過呼吸になっておったからびっくりしたぞ!」
心配を滲ませながら言う男の言葉に何も言うことができず顔を伏せる。頭の中がぐちゃぐちゃで、とても混乱して
いた。
声は聞こえるが相手の姿が見えない。
それはとてつもない恐怖だ。
助けてくれた相手だと分かっていても恐ろしさに身が竦む。
だいたいこの男は誰なのだろう。
声に聞き覚えはない。
ただの通りすがりか……それとも自分が本来知っていたはずの誰かか。
冷静になって考えてみても、何も思い出せないことに愕然とする。
自分は誰だろう。何という名前で、どうしてここに横たわっていたのだろう。
それにここは何処で、自分の目の前にいるであろう男は誰なのか。
何も分からない。
何一つ覚えていない。
再びガクガクと体が震えだす。
おそらく自分はひどい顔をしているだろう。真っ青になり、怯えた顔で男を見ているに違いない。
しかし、またしても過呼吸を起こして男に面倒を掛けるわけにはいかないと、気持ちを落ち着かせるようにゆっくり
と息を吐いた。
「怯えんでもいい」
男は優しい声でそう言った。
「わしはお前さんに危害を加えたりはせん」
言葉から男の善意が伝わってくる。
「お前が何者で、どうしてここにいるのかもどうでも良いことじゃ」
刹那、砂を掴む手の甲に何かがそっと添えられる。それはとてもガサガサとしていた。けれど温かい。しかし、その温
もりにビクッと体を跳ね上がらせて反射的に振り払う。
自分の手に添えられたものが何なのか分からなかったのだ。
「まるで山猫のようじゃな」
男の呟きが聞こえてくる。
おそらく自分の手に添えられたのは男の手だったのだろう。年輪を重ねた男の手。しかし、見えないということは自分の
心を宥めようと伸された手さえ恐怖に感じる。
恐ろしかった。
ただ音が聞こえるだけの世界がこれほど恐ろしいとは思わなかった。
先ほどまで心地よいと感じていた風が冷やかなものに感じる。
じわりと背中に汗が伝った。
ピクリと空気が動く気配に身じろぎする。
目の前の男は息を吐いて立ち上がったのが分かった。
どうする?と聞かれても答えられない。
「そこでそうしていても仕方がないじゃろう」
確かに男の言う通りだ。
今、自分は真っ暗な闇の中にいる。前も後ろも見えない。何も分からず、立ち上がり歩くこともできない。しかし、い
つまでもこうしていても仕方がないと言うことも分かっていた。
少なくとも男には悪意は感じられない。
「お前は……」
震える声で尋ねる。
俺を知っているのか?と―――――。
男は「いいや」と答えた。
たまたま通りがかりで倒れている自分を見つけただけだと。
「何も憶えてはいないのか?」
その言葉に頷くことしかできない。
「それに何も見えねえ……」
手探りで自らの瞳に触れる。筋肉の動きに反応して睫がピクピクと動いているのが分かる。
何度も瞬きをしているのに、その瞳は何も映さない。
見えるのは何処までも続く暗闇だけだ。
男は「そうか」と呟いた。
何も見えず、何も憶えていない。
厄介者に出会ったしまったと思っていることだろう。
放って置いて欲しいと思う反面、このまま捨て置かれたら自分はどうなるのかと考える。
全てが未知なることで、全てが恐ろしい。
震える体を抱きしめれば男が優しい声で「安心しろ」と言った。
「わしの家に来い」
「えっ」
「お前をどうこうしたりはせん」
放ってはおけないだろうと男は言って、震える肩に触れた。その手を今度は振り払うことはしなかった。触れた場所
から伝わってくるのは男の労わりの心だ。決して恐ろしいものではない。
そう思うとホッとしたかのように体から力が抜け、震えが止まった。
「良いのか?」
こんな何も知らない自分を……。
「放っておくこともできまい」
「だが……」
「ほら、行くぞ」
男はそういうと手をとって自分の肩へと回わす。ゆっくりと支えられ、立ち上がる。
「わしの家はすぐそこじゃ」
男に誘われるまま、ふらつく足で歩き出した。
「サスケ……か」
ふと、男が言葉を口にする。
「何だ、それは?」
サスケ?
誰かの名前のようだが……と思っていると男は「お前の名前じゃろ」と言った。
「ほら、ここに書いてある」
そう言って、男は首に掛かっているものを握らせた。細い麻ひもの先に布の袋がついている。
「これは?」
自分のもののはずだが、全く憶えていないそれに首を傾ければ「お守りのようじゃな」と男が言った。
「お守り?」
もちろんそんなものを持っていた記憶などない。
誰かがくれたものなのか、それとも自分で買ったものなのかもはっきりはしなかった。
しかし、男は言う。
布袋に同色の糸で「サスケ」と小さく刺繍されている。それがおそらくお前の名前なのだろうと男が言った。
「サスケ」
サスケ、サスケ。
心の中でそう繰り返す。
それが自分の名前だと言われても実感などまるでない。だが、違うとも思えなかった。
「サスケ」
それが自分の名前。
他には何もなく、何も分からないと男は言った。