目隠しの恋2  

 男の名前は伊庭(いば)。年は六十を過ぎ、村の長老らしい。

 ここは山間にある小さな村で山から砂鉄を採取し、たたらを行い、鍛冶をする。村のほとんどの男が鍛冶職人であり、

武具を生成して生活をしていた。

 未だにサスケがこの村で倒れていた理由は分からない。

 近隣には他に村はないという。ならば自分の目的地がここであったことは明白だ。しかし、目の見えない自分がここまで

一人で来たのかという点についても疑問だった。

 伊庭に拾われて一週間が経とうとしている。

 気持ちは少し落ち着いた。

 目覚めた時のような漠然とした恐怖心は今はない。

 だからといって目の前の闇に慣れたというわけではなかった。

 一歩、足を前に踏み出すことが異常なまでに怖かった。立って、歩く。恐ろしいのはそれだけではない。手をさし伸ばす。

 それだけでもとても怖いのだ。

 食事をする。そんな当たり前のことも全て手探りで行わなければならない。

 出された食事が何であるかは匂いで何となく知ることができたが、食欲はわかなかった。義務的に口にした食物はお世辞に

も美味しいとは感じられず、舌がもつれ、何度も口の中を噛んだ。

 服を着替える。風呂に入る。

 当たり前の日常生活。しかしその全てが難しく、人の助けを必要とした。

 話しかけられても相手がどういう顔をして、どんな風に話しているのかも分からない。

 微妙な言葉をニュアンスで相手の気持ちを知る必要がある。それはかなり神経を使うものだった。世話になっているという

負い目もあり、自分の中に苛立ちが募る。

 手を借りることが嫌で何もしたくなくなり、動くこともしない。

 食事もろくに取らず、焦燥感を募らせる。

 こんな状態が良いはずはないと思いながら、体を動かすことが煩わしい。何かをしようと思えば、目の前の闇に向き合わな

ければならないのだ。

 フウッと息を吐いて布団に横たわる。

 時間が途方もなく長く感じられた。

 ずっとこんな風に時間を過ごしてきたのだろうか? 

 ここに来る前の自分は一体どうやってこの闇と付き合ってきたのだろう。

 闇の中でも自分で歩き、行動していたのだろうか。

 一体、いつから?

 生まれた時からであればこんな風に恐怖や不安は感じなかったのではないだろうか?

 元々、目の前にあるのが闇であれば、こんなには恐れなかったように思う。

 だとすれば、自分が視覚を失ったのはごく最近のことなのだろうか。

 何も憶えていない。

 本当に、自分は何をしようとこの村を目指していたのかさえ。

「サスケくん、起きてらっしゃる」

 声が聞こえてきて、布団から身を起こす。声の主は分かっている。伊庭の娘のいのりだ。娘と言っても既にサスケと同じく

らいの子供がいると言う。その子供は今は街で仕事に就いているという話だった。

「入って良いかしら」 

 何かと面倒を見てくれているいのりを無下にすることもできず「どうぞ」と答える。そもそも自分は居候の身だ。彼女が自

分に遠慮することなどない。だが、彼女は礼儀を重んじる人間だった。

 襖の開く音がして、いのりが部屋に入ってくるのが分かる。

「気分はどう?」

 悪くないと告げると彼女はホッとしたように息を漏らした。

 

 

 伊庭が作ったという杖を用いて、歩く練習を始めたのは十日が過ぎた頃だった。

 まずは家の中を歩くことから始める。

 せめて厠くらいは誰の手も借りたくなかった。

 歩く感覚を覚え、距離を知る。

 手探りで存在するものの位置を知り、それを繰り返し自分の体に叩き込む。

 過去の自分も同じことをしていたのだろうか。

 見えない以上、感じるものが全てだ。

 手で触れ、冷たさや硬さ、形でそれが何であるかを判断する。歩く幅で距離を測り、歩数を記憶していく。

 おそらく普通に歩けば僅かな道のりに途方ない時間と労力を掛けなくてはならなかった。

 それでも気持ちの上では何かやろうと思えるようになっただけマシだと言えるだろう。

 見ず知らずの人間を救い上げてくれた者に甘えていたくはない。

 できることは自分でやりたいと願う。

 まだまだ先は見えないが……。どのくらい前から自分が視覚を失ったのは分からないが、きっと以前の自分にはできていたは

ずのことなのだ。

 まずは人の手をなるべく借りないように生活すること。

 目標が決まるとそれまで長いと思っていた時間が瞬く間に過ぎていった。

 焦燥感は消えないが、それは仕方がないだろう。

 新しい発見はいくつもあった。

 まだ闇の中を歩くのは恐ろしいと思うし足も竦む。

 しかし、新しいものを知り、覚えることで嬉しさも得られることを知った。

 杖も渡された当初はうまく使うことができなかったが、少しずつ、少しずつ一分、一秒ごとに感覚を得る。自分が進む前に何か

障害物がないかと調べ、杖を支えに前に進む。

 闇雲に前に進むより、先に確認することで安心感を得ることができた。

 未だに記憶は戻らない。だが、この十日で失った記憶を取り戻すことよりも、まずこの感覚に慣れることが大切だと思えるよう

になった。

 廊下を端から端まで何度も往復して、自分に与えられた部屋までの距離を確認する。額から汗を流し、杖を使う感覚を習得しよ

うとしているサスケにいのりが声を掛ける。

「そろそろ夕食にしましょう」

 その声にサスケは時間の経過を知り、フウっと全身から力を抜いた。

 

 

 

 本当に一歩、一歩進むしかない。

 目の前には真っ暗な闇。

 道も何も見えない。

 途方も無く、これからどうするべきなのかも分からない。

 それでも生きている。

 何故、生きているのだろうと自問自答したところで始まらない。

 死にたいのかと問われれば分からないというしかない。

 生きる理由もなければ、死ぬ理由も見つからないのだ。

 無だ。今、自分は無の中にいる。

 これからどうするのかは自分自身が決めるしかない。

 

 

 夜、布団に入り瞳を閉じる時、サスケはふと思う。

 ずっと感じていた違和感だが、おそらく自分は最初から見えなかったというわけではなかったと思う。

 何故なら、瞳を閉じれば思い出すのだ。

 大きな木の根の下に横たわり、薄桃色の可憐な花を見つめている。

 静かなだが、心地よい風が吹いて、花弁が宙を舞う。

 美しいと思った。

 これほど美しい景色はないだろうと。

 それがいつだったかは想い出せない。

 もしかしたら、それが自分の瞳が映した最後の景色なのかもしれないと思った。

 あの花は何だろう。

 何という花だっただろう。

 美しく可憐で、儚く散りゆく。

 花の向こうには澄んだ青い空。その青は誰かを連想させた。

 あれは誰だっただろう。

 うとうととまどろみながら思う。

 自分の名前が縫われた守り袋。あれはその誰かから貰ったもののような気がする。

 誰―――――。

 何も思い出せない。

 ただ手が――――。胸に置いた自分の手が僅かに熱を発しているように感じられた。

 

 

 眠りの中、誰かが自分の手を握り締めている夢を見た。

 温かい手だと思った。

 指は自分よりも短い。

 けれど手のひらは自分より広くて厚い。

 中指と薬指の付け根が固い。何かを硬く握るせいで豆ができ、それが硬くなっているのだろう。

 手はゴツゴツとしていた。

 けれど若さは感じられる。

 おそらく年は自分とそう変わらないだろう。

 ひんやりとした自分の手とは違い、相手はとても体温が高いようで、とても温かい。

 心地よい手だと思う。

 離しがたく思っていると、ポタッと手の甲に冷たいものが降ってきた。

 それが水滴であることに気づき、サスケはハッとする。

 雨ではない。

 水滴は手だけを濡らしている。

 これは涙か?

 それが目の前の誰かのものであるということはすぐに分かった。

 どうして?

 だが、夢の中でも現実と同じように視線の先には闇しか存在せず、手を握る相手の顔は分からなかった。

 どうしたんだ?何が悲しいんだ?

 ポタポタと水滴が降ってきて手を濡らす。

 目の前の誰かはサスケの手を握ったまま、声も出さずに泣いていた。

 ただ静かに涙を零し――――――。

 相手の顔も分からないのに胸がキュウと締め付けられるように痛む。

「……」

 目の前にいる誰かの名前を呼ぼうとしてサスケは口を開いた。しかし、その瞬間、声が出ないのに驚く。

 名前――――――。

 彼は何という名前だっただろう。

 手の感触から相手が同性であるということは分かる。

 この手を自分は良く知っている。それなのに名前も、彼がどうして泣いているのかも分からない。

 ただ胸が熱くて痛い。

 切なくて、苦しさがあふれ出し、どうしようもなく悲しくなった。

 泣かないで欲しい。何故だか彼には笑っていて欲しいと思う。

 彼の顔を自分は見ることができない。

 けれど、何故だか彼の目は澄んだ青い色をしているのではないかと思った。

 最後に自分が見たあの空のような美しい青。

 ふわりと体が温かなものに包まれる。

 彼が握ったその手を引き寄せて、自分を包み込んでいるのだ。

 逞しい腕が自分の背中を優しく撫でる。

 トクン、トクン、と聞こえてくる心臓の音に自分は彼の胸に耳を寄せているのだとぼんやりと思った。

 温かい。

 ずっとこんな温もりを忘れていた。

 いや、忘れようとした。

 けれど、結局捨て切れなかったもの。

 自分を包み込む温もりと、生きている証のような彼の鼓動が安心感を与えてくれる。

 安らぎに満ちながら、瞳を閉じる。

 開いていても、閉じていてもこの目は何も移さない。けれど、叶うならもう一度だけ―――――――彼の顔が見たいと思った。

 

 

 

 

 



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